ヨーロッパ各国でテロが起こるようになっても、スウェーデンは政治的に考えても、テロの起こる確率は低いと思っていた。
4月7日。イースターを一週間後に控えた金曜日の15時頃。金曜日といえば通常のウイークデーよりも早く終業する人も多い。私の病院でも15時勤務終了だ。
そして、場所は、街の中心の歩行者専用道路であるDrottninggatan。観光客だけではなく、地元民も集まる、最も混雑している歩行者天国だ。
ビールの集配中で、運転手が離れている隙にハイジャックされた大型トラック。そのトラックが歩行者天国を暴走する。ノーベル賞授賞式が行われるコンサートホールや市場を通るKungsgatanとの交差点で3人がはねられ命を落とした。
歩行者用道路に面するお店のカメラには、必死に逃げる人たちとそのあとから暴走してくるトラックが写っている。
500メートル以上暴走して、トラックはストックホルムで最も大きなデパートに突っ込んで止まった。
私が事件の第一報を知ったのは、事件発生後10分くらいだったと思う。すでに勤務時間が過ぎていたため、急いで保育園に子供を迎えに行った。もう10分でも出るのが遅かったら、病院から出られなかったと思う。しかし、この時、自宅および保育園のすぐ側で発砲を確認したというニュースが出た。保育園に到着すると、まさにその時、園庭で遊んでいた園児を屋内に避難させているところだった。子供達の無事を確認しホッとする間もなく、すぐに帰宅。SNSでは、「私は無事」というメッセージが飛び交っていた。事件現場付近では人々はすべて屋内に避難、街は閉鎖された。交通機関はすべてストップした。病院では緊急事態体制が取られ、関連部門では職員が帰宅せずに待機。
救急外来でも多くの人が自主的に残って、対応を協議。写真はHuddingeの救急。
家の近くのSt Göran病院の救急の様子。
週末は通常、ベッド数を減らすことになっている。その上、負傷者を受け入れるとなると、軽傷の患者さんは家に帰すか、どこか他の病院に転院させなければならない。不幸中の幸いで、カロリンスカに送られてきた負傷者は二桁に満たなかったため、何とかなったようだが、もっと多くの負傷者が出た場合にはどうなるのか。
一晩明けた今日、現場近くには花を供える人々が。
テロの起こった当日の夜、ストックホルム郊外で、ウズベキスタン出身の出稼ぎの男性を拘束した。イスラム国に感化されていたという話もある。
犠牲者は現在まで4名。41歳のイギリス人男性、31歳のベルギー人女性、69歳のスウェーデン人女性、そして11歳のスウェーデン人の女の子、Ebba。
Aftonbladetより
ユールゴーデンにある学校から下校途中だったそうだ。
罪のない子供までがテロの犠牲に。胸が引き裂かれる思いだ。
世界はどうなってしまうのだろう。
私には何ができるのだろう。
初めまして。
同じくストックホルムに在住の者です。
スウェーデンでは犠牲者の身元は公表しないと思うのですが、、、
私も11歳の女の子が行方不明になっていたことが気になっていて、翌日犠牲者の一人だと知り、初めて顔も名前も知らない誰かを思って涙を流しました。
彼女の名前も顔も知りませんでしたし、検索しようとも思っていませんでした。私が見ているメディアには彼女の身元情報が出ている記事は見たことはありません。このブログで初めて知りました。
どうか、最後の彼女の写真と名前などを削除してもらえませんか?
彼女の家族でもなんでもありませんが、勝手に載せられていることに不快を感じます。
よろしくお願いします。
aiさん。コメントありがとうございます。
人が亡くなるということは、特にテロのような人間として許せない行為で、罪のない人が亡くなることに対する怒りや悲しみは例えようがなく、同じ街に住む私としては、他の国で起こった時以上に身近であるだけに、怒りや悲しみの大きさが大きくなるような気がしています。テロ以降、そんな大きな感情にとらわれたまま他のことが手につかない状況で、テレビ、新聞をはじめ、インターネット上でも様々な情報に目を通してきました。そして、やはり、この感情が大きいうちに、誰かと感情を共有したいという気持ちで、記事を書きました。人の命に差はありませんが、やはり、最も若い犠牲者に対する気持ちは特別であり、それは、今回のテロを知っている方ならば少なからず同じであろうと思います。
まず、スウェーデンで犠牲者の身元は公表しないとおっしゃっていますが、それは正しくありません。成人に関しては、犠牲者の名前と写真が掲載されています。未成年に関する扱いは、大きなメデイアでは公表を控える傾向がありますが、小さなメデイアでは少なくとも名前は記載してあるところが多いですし、写真も散見されます。そして、全てのライターが、彼女が亡くなったことに対する悲しみや、その原因となったテロに対する憎しみを綴っています。今日の新聞では、彼女が通っていたユールゴーデンにあるCampus Manillaの校長先生のコメントも掲載されており、個人の特定は容易です。
個人的に撮影した画像を晒すことは問題かもしれませんが、私が使わせていただいた写真や情報は、広くメデイア上に存在するもので、出自も明らかにしておりますし、個人的なものではありません。
日本では、乳幼児であっても被害者の名前や写真を報道しますよね。それに関しても同じように不快に思われてきたのでしょうか。あなたが不快に思われたことは残念ですが、私は私なりに考えて記事を書きました。彼女の死が無駄にならないためにも、紹介したいと思ったからです。
私は報道に関する倫理に関してはあまり詳しくありませんが、彼女の写真や名前を報道しているメデイアが複数あることから判断して記事にしました。今後調査して、適当でないと判断した場合には削除することもあるかもしれませんが、現在のところはこのままにしておきます。倫理上の問題だけでなく、遺族の希望というのは大きいと思います。また、遺族のものと思われる携帯番号については不適当だと思いましたので網掛けをしました。
批判コメントも多いに結構なのですが、ご自分で情報収集することないままの、事実に基づかない批判はご遠慮いただければ幸いです。もし、倫理上不適当という根拠がある場合は、ご教授ください。よろしくお願いいたします。
今日、aftonbladetに彼女の両親から承諾を得て、彼女の両親からのメッセージと共に彼女の写真が掲載されているのを拝見しました。
あなたは、その前に載せていますよね。
スウェーデンにお住まいならご存知だと思いますが、スウェーデンでは子供の写真を無断でインターネット上に載せることは良いことではないですよね。もちろん、この写真はプライベートなものではなく、すでにインスタグラムで拡散されていたものでしょうが、この時はまだ行方を捜している時のものであり、あなたが載せていた時には、すでに彼女が犠牲者の1人と知られていました。
なぜ、わざわざ写真まで載せないといけなかったのか全く理解できません。
もし、自分の子供が犠牲に遭い、こんな風に名前も分かる写真を載せられていたら、どう感じるでしょうか。
私も同じように彼女の死を無駄にはしたくないと思っていますし、胸が張り裂けそうに辛いです。だからこそ、わざわざ個人を特定しようとは思わず、情報収集などしませんでした。
誰かと共有したいという思いは理解できますが、なぜ写真まで載せる必要があったのでしょうか。強い憤りを感じたのでコメントさせて頂きました。
重ねてのコメント、ありがとうございます。
残念ですが、私はあなたのように思いませんでした。多くの人がインスタグラムで流れた映像をさらにネット上に拡散しました。そして、それは、彼女の死を悲しみ、テロを憎むというメッセージです。
私は、家族であっても、こうして多くの人が彼女に想いを馳せてくれることで、救われるのではないかと思いました。実際、家族は新聞に、「この絶望と痛みの中で、スウェーデン国民から頂いた温かさと愛に心から感謝します。」”Av hela vårt hjärta tackar vi svenska folket för all den värme och kärlek ni givit oss i en tid av förtvivlan och smärta”と心境を語っています。
これは、先に流れたインスタグラムとその続報で、いち早く名前や写真が多くの人の知るところになったからです。彼女の家族を全く知らなくても、どうにかしてサポートしたいと思う人々がいるのです。インスタグラムの写真をアップしたブロガーやジャーナリストの記事には、家族に対する愛が溢れています。インターネット上の情報で個人を特定したスウェーデン中の人々から、家族に様々な形で温かいメッセージが届けられたからこそ、この早い時点で家族から感謝の言葉が述べられたのです。個人が特定できていなかったらそれはなかったし、家族の反応は、あなたが心配しているようなネガティブなものではありません。
あなたが写真に反応されることをおかしいとは思いませんし、おそらく、他にもそのような方はいらっしゃるでしょう。正解のないテーマなのかもしれません。しかし、どちらの考え方だったとしても、彼女や彼女の家族に対する思いは同じはずです。だからこそ、私のような考えの人間がいるということを、あなたが許容できないことを、さらにはこのような場でこのような表現をされることを、私は理解できません。
私は、特に、スウェーデンに住んでいない日本人に向けて、このテロの悲惨さを伝えたくて、やり場のない怒りや悲しみを伝えたくて記事を書きました。ときに、写真は文章よりも雄弁です。彼女の写真は、私の文章よりも私の言いたいことを語ってくれると思います。
世の中には、いろいろな考えがあって良いはずです。そして、このブログは、ブログ主である私自身のの意見を述べる場所です。