Visits

Online: 1
Today: 493
Week: 5347
Overall: 5435022

Flag counter

free counters

告知をめぐる文化

癌の告知は、日本でも最近は普通になってきているが、それでも、家族が本人への告知を希望しない場合がかなりある。

そんな医療現場の文化に慣れてしまっていた私は、スウェーデンの文化に衝撃を受けたものだった。

スウェーデンの文化とは、「本人絶対主義」。患者さんに意思疎通能力がある限り、癌の告知を含め、本人に話さなければならない。ときには、患者さん自身が、家族には秘密にしてほしいという要望を出すこともある。その要望に医療従事者は答えなければならない。日本だと、患者さんの家族に訴えられたりすることを避けるためにも、家族への説明にも多くの時間を割かなければならない。インフォームド・コンセントは日本では書類作成の上、署名するなどしなければならないが、スウェーデンではそんな手続きはなく、まだまだおおらかである。

スウェーデンの文化と日本の文化を双方体験してみて、もともと「癌を告知しないこと」には消極的な考えを持っていた私は、ますます、その思いを強くした。人生はその人のものである。人生に大きな影響を及ぼす事象について、家族であっても他人が情報操作することは許されないと思う。自分が持っている時間が長いのか短いのかを知り、自分の人生の台本を手直ししなければならない。

そして、人間とは意外に強いものである。出身、年齢、性別、学歴、職業など様々な患者さんにスウェーデンで会ってきたが、非常に厳しい現実をそれぞれが受け入れて、生きようとしている。スウェーデンでは、高度治療を必要としない末期の患者さんを大学病院に入院させることは少ないため、死の瞬間に立ち会うことはあまりないが、大学病院での治療を終えて(中止して)、在宅やホスピスに送り出すまでの管理をすることは多い。その中には、「引導を渡す」ことが当然含まれているが、早い時期に十分な告知をしているため、死期の近い人に、短い余命を告げることは回避できる。患者さんは、その過程の中で事実と向かい合い、受け入れてゆく。

手術前に行われる、初めての「癌告知」は、かなり楽である。何故なら、治療により治癒する可能性があるから。日本での「癌告知」は、日本の文化を鑑みるて非常に気を使うものであるが、スウェーデンでは、単刀直入に、「あなたは癌です」と言える。手術後の再発や転移の場合は、スウェーデンにおいても緊張する。最近、癌の再発を来たした複数の患者さんに話をする機会があったが、患者単独と話をするのか、家族と一緒に話をするのか(家族だけに話をするという日本式なやり方は、患者さんが重態であるとか、意思疎通能力がないとかという特別な状況でなければ行われない)によっても、場の雰囲気は異なってくる。ある患者さんは、尿管と新膀胱の吻合狭窄を手術する予定で開腹したら、腹膜播種がみられたため、そのまま閉腹したのだが、患者さんはベッドに横たわり私の顔を見ていたが、その傍で患者さんの手を握りながら話を聞いていた奥さんは、こらえきれず泣き出した。患者さんが奥さんの背中をさすり慰めていたが、スウェーデンではこのようなカップルにしばしば遭遇する。強いと言われるスウェーデン人女性、逆に、おとなしいスウェーデン人男性だが、なぜか、余命宣告のような場ではスウェーデン人男性は強いような気がする。

日本とは違うスウェーデンの医療現場の文化といえども、私の診療のスタイルは日本に近い。辛い状況に置かれた患者さんや家族に対しては、どうしてもドライにはなれないからである。でも、先日こんなことがあった。膀胱癌の患者さんだけを集めた外来を膀胱癌チーム4人で担当。予約制ではなく到着順に診察するため、患者さんは主治医でない医師の診察を受ける確率が高い。外来の看護師さんが私のところにきて、「先生と会った患者さん夫婦が、『Äntligen fick vi en läkare som vi kan prata.(ついにちゃんと話を聞いてくれる先生に会った。)』と話しながら帰っていったわよ。素敵な賛辞だと思わない?」日本流はスウェーデン人にも評判は良いと感じている。

膀胱癌の再発を告知した、入院中の男性。イラク人の彼は片言のスウェーデン語を話す。両側腎瘻と新膀胱へのカテーテル、併せて3本のカテーテルが挿入されている。込み入った話は通訳同席あるいは、家族が通訳となって話すため、彼の感情を理解することは難しい。腎機能の回復を待って、抗癌剤の投与ができればという状況。専修医の手術指導のため手術室へ向かうとき、彼が病棟の廊下を懸命に歩いているのに会った。「Hej!」と言って通り過ぎた。約2時間後、手術が終わって病棟へ戻ると、未だに廊下を彼が往復している。「Vad duktig du är! Jättebra!(良く頑張ってるね。とっても良いことよ。)」と声を掛けると、「Jag vill bli stark.(強くならなくっちゃ。)」と言ってはにかんでいた。父が末期癌を宣告されたとき、毎日、病院の屋上で何キロも歩くトレーニングをしていたことを思い出した。父に起きた奇跡が、彼にも起こるといいなと思った。父は告知をされて、全てを知っていたし、知っていたからこそ頑張ったのだと思う。

 

友人のコンサート

いつものように疲労困憊の金曜日ですが、友人のコンサートに招待されていたので、行って参りました。

「Niclas Frisk’s Chinatown Acoustic Deli」
場所はVasastanのBryggarsalenでした。

観客はをワインやビールを飲みながら開演を待ちます。

夏にも彼の野外コンサートに行きましたが、今回は屋内で、しかも、エレキギターではなく、アコーステイックギターだけ。同じくギターのHelenと、キーボードのアレックスの3人での舞台です。

Niclasのギターは天才的。決して狂うことのないリズムと音程。

彼のソロアルバムであるChinatownからだけでなく、Atomic Swing時代の曲までカバー。しっとりと聴けました。

 

アンコールの2曲は、A CampでNiclasが作曲しNina Perssonが歌った、「Love has left the room」と、Atomic Swingの最初のヒット曲、「Stone me into the groove」。手に入れたばかりのiPhoneで撮影してみました。ファイルが大きいので、ロードするのに時間がかかります。そのうちにサイズを小さくいたします。

IMG_0222

 

 

 

香りの記憶

物心が付いたときには既に眼鏡のお世話になっていた私には、目覚めたときに周囲がはっきりと見えた記憶が全くないほどの「ど」近眼です。視覚が弱点である私の嗅覚はなぜか非常に敏感。かすかなタバコの臭い、薬品やガスの臭い、香水、、、。喘息持ちでもある私は、これらに刺激されて発作が起こることも稀ではありません。最近では、基礎化粧品も極力無臭のものを選ぶようにしていますし、香水に至っては全く使いません。欧米では、所謂、腋臭を持つ率が高いようで、それを隠すために香水を使っている人もいますが、そんな人が通りかかっただけで咳が出ます。病院では、香りや花粉アレルギーの患者さんを考慮して、お見舞いの花束を持ち込むことは禁止されていますが、香水禁止令を望んでいる人も少なくありません。私が以前、買い集めた香水瓶も、戸棚の中で眠ったままになっています。

 

様々な感覚の記憶が、特定の感情を呼び起こすことはよくあることですが、嗅覚が敏感である私には、いくつかの香りの記憶があります。そのうちの一つは、「太陽の香り」です。子供の頃、綿で出来た布団で寝ていましたが、毎週末、天気が良ければ、母が布団を干してくれていました。その夜、布団にもぐったときの香りは特別で、それを「太陽の香り」と理解していました。同じく、太陽光の下に乾かされたタオル。プールで泳ぐのが好きだった小学生の頃、プールでかじかんだ私の体に母がバスタオルを掛けてくれるときのタオルの暖かさと太陽の香りといったら、、、。それらの香りは、何とも言えず優しくて暖かくて、、、まさに、「母の愛」を感じていました。今でも、帰国して実家の布団に入るとき、帰国にあわせて布団を干してくれる、「母の愛の香り」を楽しんでいます。母の香りはその他にも、母の得意料理の香りがいくつかあります。私が子供の頃、貧しいながらも精一杯工夫して作ってくれた料理はとても美味しかった(もう長い間、食べていませんが、今度帰国したら手料理をお願いしてみようかしら、、、。)。

 

これらの香りは、私の海馬、大脳皮質を直撃し、強い感情を呼び起こします。切なくなります。私にとって、「香りの記憶」というのは、非常に強いインパクトがあるようです。

 

遠距離恋愛で別れてしまった学生時代の彼は体育会テニス部の後輩。彼は結構なお洒落さんでしたが、彼の定番の香りがありました。それはオーデコロンだったため、普段はそれほど感じないのですが、お互いに部活動が終わってシャワーを浴びたあとのデートでは、香りを強く感じました。男性がつけるオーデコロンの香りを嗅ぐというのは、私にとって初めての経験で、その嫌味のない爽やかさに大きな魅力を感じ、胸がキュンとなったものでした。

 

その香りがこちら。200年以上の歴史を持つ、ミューレンス社の香り。フランス革命の最中、フランス軍がケルンに進駐します。その際に、ケルンの建物に番号をつけましたが、ミューレンス社の番号が4711だったことから命名されたのだそうです。その香水は、「ケルンの水」と呼ばれましたが、フランス語では「オーデコロン」。これが、オーデコロンの由来なのだとか。オレンジなどの柑橘類、ローズマリー、ラベンダーなどが配合されていて、女性でもつけられそうな香りです。

彼に別離を告げられたあと、10年ほどその恋愛を引きずることになったのですが、その間は4711の香りを嗅ぐと、彼との思い出が蘇り、心の古傷が痛みました。香りの記憶というものは、これほど強烈であるのかと驚きました。

長期記憶は海馬によって大脳皮質に送られるようですが、感情を司る扁桃体と海馬との間にコミュニケーションがあるのだそうです(図はネットからの借り物です)。私の場合、嗅覚の記憶が扁桃体を介して強い感情を惹起するのだと解釈すると非常に納得できます。

 

先日、友人とこんな話をしたら、彼女の場合は、昔、失恋したときに聴いていた、「ドリカムの曲」は、今でも悲しくなるので聴けないということを話してくれました。良くわかります。私の場合は、ユーミンかな。それでも、聴覚より嗅覚の惹起する感情の方が秒単位で起こる早いもので、私にとっては衝撃が大きいように思います。

 

数年前、戸棚の中で眠っていた4711を、久しぶりに嗅ぐ機会がありました。

もはや、懐かしさだけで、心が痛むことはありませんでした。何だか少し切なくて、でも嬉しかった。だから、今、こうやって昔の恋の話を表現できるのだと思います。本当はもう少し書いてみたいのだけれど、また別の機会に、、、。

最近の出勤時の風景

毎朝、7時半からミーテイングがあるため、遅くとも10分前くらいには職場へ到着するようにしています。

7時前には家を出ますが、最近は滅多にお日様にお目に掛からない中、6時半頃の日の出直前の写真を。

 

アパートの東の窓からは、ストックホルム市内の空が良く見えます。

 

右端に美しいシルエットを見せているのが、ストックホルム市庁舎。

窓から市庁舎が見えるゲストルーム兼仕事部屋は、私のお気に入りですが、最近、物置と化しています、、、。

人生におけるmentor、研修医時代

人生の中で、「この人についてゆきたい」と思えるようなmentorに出会いたいものだと思ってきましたが、残念ながらその願いは叶えられていません。複数の友人に聞いてみても、mentorに出会った人はほんのわずかです。そんな思いがあるからか、偉大な功績を残した人をみると、その人にはmentorがいたのか、また、本人自身が優れたmentorであるのかどうかということに興味が沸きます。成功するためにはmentorが必要かどうかは別として、要所要所での鍵となる人との「出会い」というものは、重要であると思っています。同時に、成功した人が良きmentorであるかどうかは、必ずしもそうではないと。

 

mentorについてはまたおいおい述べることとして、私が研修医だった頃のことを少し。

現在の新研修医制度というものではなく、医学部卒業と同時に医局に属する人が多かった時代です。

現在、泌尿器科を専門としている私ですが、最初は実は耳鼻科に入局しました。父が腎臓癌で生死の間をさまよったことを経験してから、泌尿器科を専攻したいと思っていました。しかし、泌尿器科の研修は、外科で研修医を2年、その後、大学でレジデントを1年、6年目にチーフレジデントを1年というメニューなのですが、大学での研修は、人数が少ないこともあって、連日の当直など、最も厳しい科の一つとされていました。泌尿器科の先生方はとても気さくで、「私の腕の中に飛び込んでおいで!」などと、当時の助教授にも言ってもらったのですが、決断することができませんでした。当時、結婚を考えていた1年下の彼とも相談し、結局、女性により向いていると考えられた耳鼻科に入局することになったのです。

 

耳鼻科に入局したはいいけれど、何の因果か、耳鼻科と泌尿器科の病棟は6階の南と北で隣同士。泌尿器科の先生方に出会うたびに、胸が痛みました。当時の耳鼻科の教授は耳科学が専門で、真珠腫性中耳炎やら、聴神経腫瘍やらの手術が主流。私はどちらかというと、非主流派である、上額洞癌、甲状腺癌、耳下腺癌といった頭頚部癌の方が好きでした。毎日、額帯鏡をつけての診察は、頭痛がするし、切れ毛になるし、、、。もしかすると、自分が耳鼻科にあわないという理由を無意識のうちに探していたのかもしれません。

 

しかし、一度決めたものは頑張らないと。石の上にも、、、。と思っていたときに、地方病院への出張の話が出ました。フレッシュマンの同級生の中から一人、半年交代で地方病院での研修。研修先は東京から新幹線で約1時間のところにある病院で、耳鼻科の医長は、手術の天才との呼び声が高い先生でした。大学病院でも見放された患者さんをどんどん手術しているという話も聞きました。耳鼻科が嫌いになりそうになっていた私は、渡りに船と、その研修に立候補しました。

 

当時、大学病院のそばにワンルームのアパートを借りていましたが、バブルの終わりの時期で、ワンルームなのに家賃は12万円くらい。月給が2万5千円でしたから、家賃は親に援助してもらっていました。半年の出張なので、アパートはそのまま。出張先では、病院内に寮があり、お給料は9万円ほどでした。厭々ながら、その当時の彼には出張を応援してもらいましたが、当時はインターネットも携帯電話もない時代で、夜中に病院の公衆電話から電話をかけたりしながらの遠距離恋愛の行く末は、想像に難くなく、結婚を考えた彼とのおつきあいは4年弱ほどで終止符を打つことになりました。

 

いつものように脱線しましたが、手術の天才であるボス。噂に違わず、素晴らしい外科医でした。メスやメッツェンの先に目がついているのではないかと思うほどでした。手術件数があまりに多いので、麻酔は自己麻酔ということも珍しくなく、ときには、オールナイトで2件並列ということもありました。朝の9時まで手術をして、9時から外来ということもありました。しかし、辛いとは思わなかった。私は天才外科医である彼に傾倒しました。彼に手術を一から叩き込まれたことは、現在の私の外科医としての基盤となっています。

 

半年の研修が終わって大学に帰らなければなりませんでしたが、私は次の研修でも彼の指導を受けたいと思いました。東京の北に位置したその病院から、東京の南の病院へと転勤した彼のあとを追って、私は新幹線で南へ向かいました。ボーイフレンドとも別れ、単身、知らぬ土地へ向かったそのときの心細さといったら。しかし、私が師匠として追いかけた彼は、外科医としては天才でも、指導者・人間としては、失格だということを、知ることになったのです。

 

メスが切れるだけでは、mentorの資格を満たすことはできません。指導者は複数の部下に対して公平でなければいけないはずなのに、特定の人間を贔屓した。そのことで、当時の同僚が複数、彼に不満を持って、耳鼻科をやめました。外科医、殊に、traineeの時代には、手術症例の取り合いが生じることは珍しいことではありません。日本でも、日常茶飯事でしたし、現在、スウェーデンの職場でもST(専修医)の間で軋轢があります。無駄な争いを生まないようにするには、指導者が公平でなければならないのです。

 

彼に対する不満はそれだけではありませんでした。メスの切れる外科医の中には、難しい手術に挑むことを登山のように考えている人間がいます。より難度の高い手術を手がけるために、手術適応のないと考えられる進行癌も手術する。また、手術が終了すると、患者さんへの興味を失う、、、。高度の進行癌を手術する訳ですから、当然手術は非常に侵襲の大きいものとなるのに、術後の全身管理をきちんとしない。もともと、耳鼻科医というのは、眼科医や整形外科医などと同じで、手術はするけれど、全身管理があまりできない人が多いのです。「ナトリウムが低いからナトリウムを点滴で入れましょう。」というようなやり方に、私は嫌気がさしてしまいました。

 

mentorかもしれないと思った人間に対する失望と、耳鼻科に対する失望とが、私を再び泌尿器科へ向かわせる原動力となったのです。そんな中で、同じ病院の泌尿器科の先生と接触するようになりました。時間のあるとき手術の助手をしたり、内視鏡の手術をさせてもらったりしているうちに、やはり泌尿器科こそ私の天職だと思うようになりました。同じ病院の泌尿器科は私の学閥とは違う学閥で、医長には、「先生が男だったらうちの大学にひっぱるんだけど、女性だから母校へ行った方が良いと思うよ。」と言われて、母校の泌尿器科の教授へ電話し面談、3年目から泌尿器科へ転科することがとんとん拍子に決まり、以来、泌尿器科医としての人生を歩んでいるという訳です。

 

キャリアの中では、未だにmentorと呼べる人には出会ったことはなく、何人も出会った指導者は、どちらかというと、反面教師といった感じが強く、残念です。しかし、人生においてのmentorには出会えたかなと思っているので、それで幸せだと言えます。

iPhone5

ほのぼのします。

少し前になりますが、新聞にほのぼのするビデオの紹介がありました。ビデオ自体は随分昔のものです。

Cristianというライオンのお話。私などが解説するより、まずはご覧ください。癒されます。

 

Christianの飼い主たちの髪型やジーンズを見ると、年代が分かりますね。

野生に戻ったライオンも、以前の飼い主を覚えていたのです。

なんだかとても癒されます。ほのぼのします。

弱い自分に喝

どんなに落ち込んでいても、どんなに疲れていても、体温が38度くらいでも、月のものが重くても、仕事ができなくなったことはない。

流石にノロウイルスに罹ったときくらいは働けなかったことがあるけれど。

人はそんな私を、「精神的にも肉体的にも強い」というが、そんなことはない。一応、「精神の病」と言われるものを何年も患ったこともある。

正直、今この瞬間、限界が近い。精神的にも肉体的にもぼろぼろだ。世の中には頑張っても手に入らないものがあると知りながら、悪あがきをしている。自分を追い込んでいるのは他ならぬ自分自身。今までの自分の人生を支えてきた、「負けず嫌い」が、この場合、「凶」と出ている。

こんなときに、どうして働けるのだろうかと思うことがある。私は自分の仕事が好き。辛くても、喜んでくれる誰かがいる。

ふらふらと病棟を歩いていたら、理学療法士のお姉さんがやってきて、「9号室の患者さんとその家族、先生に診てもらって、とっても喜んでいたわよ。」と言ってくれた。ある看護師さんがやってきて、「娘が泌尿器科で手術が必要になったの。是非先生に手術して欲しいんだけど。」と。先日入院したチェコからの移民のおじさん。たまたま他の先生が執刀することになったことを知り、私に言いにきた。「先生の手術日まで待つから、先生に手術してほしい。」

今、とても辛いから、自画自賛もお許しを。でも、辛いときにも働くことができているのは、こんなことがあるからなのかもしれない。治療を供給する立場なのに、実は自分が癒されている。

今週は、膀胱全摘が2件。助手が交替する中、休憩なしで手術していたら、「日本式だね。」と揶揄された。執刀しているときは、あまり疲労は感じないものだが、これからはスウェーデン式を意識して取り入れようと思った。

私は決して強い人間ではない。「人生不平等」を理解しているかのように語りながら、「人生不平等」を受け入れることにもがき苦しんでいる、弱い人間だ。働くことをやめてしまったら、私など塵みたいなものだ。強くなりたいとは思うけれど、自分の弱さを認識し受け入れることも、また一つの強さかもしれない。ぼろぼろでも、1ミリでも前へ進み続ける努力をすることで、弱い自分に喝を入れたい。

カザン聖堂

セント・ペテルスブルグの目抜き通り、ネフスキー大通りに面している、カザン聖堂。

聖堂の両側に延びる回廊が特徴的な、美しい建物です。1801年に始まった建設は、祖国戦争により中断され、1811年に完成。祖国戦争により、ナポレオン軍を撃退した将軍がここに埋葬されているそうです。
現在は、ロシア正教会の中心となっています。

聖堂の上の十字架は、ここでは2重の十字架。

下の十字架は、水平ではなく、少し斜めになっています。ロシア正教では、こんな意味があるのだそう。

ある2人の罪人が、死刑を言い渡されました。そのうちの一人は、神を信じ、神に自分の罪の許しを乞いました。もう片方は、神を信じることはありませんでした。そこで、神はその二人を(水平ではない)十字架に架けましたが、神を信じる罪人は高い方へ、信じない罪人は低い方へ。その結果、低い方へ架けられた罪人は地獄へ落ちてゆきましたが、高い方へ架けられた罪びとは落ちることなく留まったというお話。

 

カザフ聖堂の周辺には、素敵なレストランもあります。そのご紹介は次に。

セント・ペテルスブルグ初日

期待にたがわず、セント・ペテルスブルグは美しい街でした。

ソビエト連邦時代に、レニングラードと呼ばれ、連邦崩壊を受けて1991年にロシア帝国時代のセント・ペテルスブルグという名称にもどりました。丁度20年前のことです。

ロシアといえば、大国であるだけでなく、既に先進国というイメージでロシアに入ったのは間違いでした。都市人口500万人以上を抱えるセント・ペテルスブルグの空港は、、、15年ほど前の古い那覇空港よりひどかった、、、。トイレは数えるほどしかなく、あちらこちらに長い列。イミグレーションでさえ英語が通じない。タクシーのぼったくりはひどすぎる。空港のタクシー受付窓口のお姉さんとぐるになっています。窓口では、市内まで「900ルーブル」と表記があるのに、運転手は2000ルーブル近い値段をふっかけてきます。窓口で、「900ルーブル」とチケットに書いてもらわなければ、相手の言い値を払わなければなりません。しかも、もの凄い運転。10メートルでも前に余裕があれば、思いっきりアクセルを踏み、思いっきりブレーキを掛ける。ウインカーを出さずに車線変更。凄すぎます、、、。しかし、ロシア人、何て愛想がないんでしょう。殆どの人が、眉間に皺を寄せて、怒った顔、悲しい顔、あるいは、無表情で歩いています。スウェーデンでは日本に比べてサービスがなっていないと、腹が立つことが多いですが、ロシアではスウェーデンのサービスが素晴らしく感じるほどです。

 

最初から愚痴になってしまいましたが、セント・ペテルスブルグは、流石、「世界一美しい街」と呼ばれるだけのことはあります。美しい街の様子はおいおい。

ここでも日本食はブームのようです。スウェーデンでは、「寿司と炒め物(wok)」など、寿司が中華やタイ料理と組み合わされることが多いですが、ロシアではこんな感じ。

お寿司とピザ!?!?!?

しかしかくいう私も、英語が通じないことに恐れをなして、ネフスキー大通りに面した日本食もどきのチェーン店へ。メニューに写真があるという理由のみでの選択。

お寿司のメニューは非常に多くて、しかも、「ロシア版」お寿司といった感じのプレゼンテーション。

「創作寿司」もここまでくると、、、。

きゅうりで軍艦を作るアイデアはスウェーデンで使えそう!

うな丼発見!

「もつ」のやきとりなんかもあります。

味は、奇妙な感じでしたが、サービスのお兄さんは愛想も良かったし、腹ごなしにはなったのでよしとします。

 

あれから半年、あれから10年

光陰矢の如し。

この9月11日は、日本人にとっても、人類にとっても節目の日。

あれから半年。日本を震撼させた「東日本大震災」。今もって避難している方は8万人以上、死者は1万5781人、行方不明者は4086人という。先日母から送られてきた、Youtubeの画像を見る。未だに生傷に塩をすり込まれるような心の痛みを覚える。

新しく発足した内閣も、閣僚の失言で早くもけちが付く。失言で大臣が失脚するのは何とも日本らしいが、政治家としての実力があれば、それが優先されても良いのではとも思うが、口を開く前に少し考えれば、それが失言であると理解することは容易なはず。口で身を滅ぼす人は多い。今はとにかく、復興への道を邁進しなければならないときだ。

 

そして、あれから10年。

3000人近くの人が犠牲となった、「アメリカ同時多発テロ事件」。自民党の石原幹事長が、「西洋文明、キリスト教支配に対するイスラム圏の反逆、そして歴史の必然として起こった出来事ではないか」と発言して、批判されているようだが、日本を離れて、イスラム圏の文化や思想、人間と接することが多い生活をしていると、それはごく当たり前の感想と思える。テロは決して許されるものではないが、「テロが何故起こるのか。」ということに、殊に先進国は想いを馳せなければならないと思う。

 

 

そして、スウェーデンでは、もう一つの「あれから」。

時の外相、アンナ・リンドがNKデパートで刺殺されてから8年。あのとき、2回目のポスドクをしていた私は丁度ストックホルムにいた。彼女が生きていたら、今頃、首相になっていたかもしれない。丁度彼女は、ユーロ導入の旗頭としてキャンペーンをしていたが、彼女の死によっても、国民の意思は、「ユーロにNO」であった。現在のユーロの混迷を考えると、あのときスウェーデンがユーロを導入しなかったことは、スウェーデンにとって吉と出たようだ。

 

今日、9月11日は複数の「あれから」に想いを馳せる日。

人間は、人間が犯した過ちから学なければならない。

 


Warning: mysql_query() [function.mysql-query]: No such file or directory in /var/www/drpion.se/public_html/alltidleende/wp-content/plugins/quickstats/quickstats.php on line 345

Warning: mysql_query() [function.mysql-query]: A link to the server could not be established in /var/www/drpion.se/public_html/alltidleende/wp-content/plugins/quickstats/quickstats.php on line 345

Warning: mysql_query() [function.mysql-query]: No such file or directory in /var/www/drpion.se/public_html/alltidleende/wp-content/plugins/quickstats/quickstats.php on line 346

Warning: mysql_query() [function.mysql-query]: A link to the server could not be established in /var/www/drpion.se/public_html/alltidleende/wp-content/plugins/quickstats/quickstats.php on line 346

Warning: mysql_fetch_row() expects parameter 1 to be resource, boolean given in /var/www/drpion.se/public_html/alltidleende/wp-content/plugins/quickstats/quickstats.php on line 346