いつもいつもご無沙汰してしまいます。
一つ前のエントリーでは、意地悪なコメントもありましたが、掩護射撃も頂いており、とても嬉しく思っております。お返事が遅くなっておりますことを、お詫び申し上げます。
このブログでは、私の敬愛する人生のパートナーについては、殆ど触れておりません。それでも、多少見え隠れしていたように、彼は脊髄損傷を負っており、車椅子での生活をしています。そして、もうすぐ受傷してから30年が経とうとしています。彼のアドバイザーでもあり、友人でもあるClaesは、ストックホルム脊髄損傷センターを立ち上げた医師であり、自身も車椅子生活を送っていますが、Claesと私のパートナーは数時間違いで脊髄損傷を負ったといういわくがあります。同じ日に受傷した脊髄損傷患者3人を取材した記事が、今日のDNに掲載されました(記事 )。
(写真もDNの記事より)
私が最初にパートナーに出会ったのは、私がポスドクとして働いていたときで、彼は大学院生でした。彼とは、Cellにアクセプト寸前までいった論文の筆頭著者争いもしました。彼の人生に対する考え、想像を絶する努力、他人への思いやり、そして、どんなときも消えることのない明るさは、私の人生を根底から揺るがすほどのショックを与えました。勿論、異国へ移住し、しかも、車椅子生活の人をパートナーとして生きてゆくことを決意することは、決して容易なことではありませんでした。しかし、人間としての彼への尊敬の念、そして、彼が表現してくれた私への大きな愛が、私を清水の舞台から飛び降りさせました。
これまで何年も続けてきたブログの中で、自分の哲学や考えを表現しさえしなければ、意地悪なコメントを受けることもないであろうことはわかっていますが、やはり、表現するからには、自分の人生を表現したい。そして、今回、この記事が出ることをきっかけに、今まで語ってこなかったパートナーの紹介をしてみようと思いました。きっと、異なった切り口から、今までの私とは違った、あるいは、今までの私をサポートするような印象を与えることができるであろうと。
今日のDNの記事は勿論スウェーデン語ですので、パートナーと、特に近い友人であるClaesに関する部分を訳してみました。ご興味のある方はどうぞお読みいただければ幸いです。
5月のその日は暖かく太陽が輝いていた。Claes Hultlingは結婚式を3週後に控えていた。彼は完璧なダイビングをしようとした。水面下には石が隠れていた。彼の頭はその石に命中し、首から下が麻痺してしまった。
それから数時間後、Per Uhlenは友人からオートバイを借りた。どれだけ早く走るのか試してみたかった。加速したまま、速度計を見ていた。彼がカーブにさしかかったのに気付いたときには、既に遅かった。道路から吹き飛び、Claesと同じような障害を負った。
同じ夜、Magnus Krossenは学生のパーテイーからの帰り道、後部座席に座って寝ていた。運転手も眠りこけ、車は回転した。シートベルトをしていなかったMagnusは頭を強打し、すぐに何かがおかしいことに気付いた。しかも、以前彼は脊髄損傷を受傷して麻痺していたのだ。
Claes、MagnusそしてPerが脊髄損傷を受傷してから、明日で丁度30年になる。それゆえ、3人の中年男性はストックホルムで、それを祝う夕食を共にする。あの5月のその日、命は終わっていたかもしれなかった。
「私がオートバイで森の中へ吹き飛んだのは、14歳のときでした。」とPerは言う。「友人が私を探していたとき、私は一晩中森の中に転がっていました。最後に犬を連れた人がやってきて、救急車を呼んでくれました。」
Mora病院に入院したのち、PerはUppsalaで手術を受けた。そこで7ヶ月入院して、リハビリをした。
「事故から数週間後に、私は戦うことを決めました。まだ若かったから、そう考えるのも易しかったのかもしれません。自分の手だけで車椅子生活を送ることができるために、何でもしました。もし、45歳で受傷したら、体力的にも精神的にも回復するのは難しかったかもしれません。」
Perが言ったことの中で、印象的だったのは、次のことだ。
「もし、脊髄損傷を受傷しなかったら、車椅子に座っていなかったら、現在ほど幸せにはなっていないだろう。」
退院後、Perは継続してバンドを続け、16歳で運転免許を取得し、そして、友人たちはいつも近くにいた。
ラジオの修理工として働いた後、PerはKomvux(成人学校)で学ぶことにした。彼の夢は、civilingenjörになること。ストックホルムのKTH(王立工科大学)に入学し、核物理を専攻した。その後、小児疾患と細胞生物学の分野で研究を続け、2002年にPhDを取得し、アメリカのYale大学でポスドクとして働いた。
現在、Perはカロリンスカ研究所の准教授として、自身の研究グループを率い、幹細胞や癌に関する研究をしている。妻との間には、7月に2歳となる双子がいる。
「事故なしには、そして、車椅子なしには、私の現在は無かった。事故に遭ったことは、私を世界へと押し出してくれた。例えば、2回のパラリンピックでスウェーデンチームのキャプテンを務めたし、アメリカで働くチャンスも得た。」
Perはもともと人生に対してポジテイブであった。
「問題よりも可能性に注目する。」と彼は言う。
「病院で既に、孤立しないようにすると決めた。以来、親友のNiclasは常に側にいたし、一緒にバンドを組んでいた。彼は病院へお見舞いにきて、病院で寝ることもあった。周りの支えはとても大切だった。」
(中略)
Claes Hultlingはダイビングで首を損傷したその暖かい5月の日には、Magnusより数歳年上だった。彼は既にカロリンスカ大学病院で麻酔科医として働いていたので、受けた損傷が重篤であることは理解できた。受傷のあとすぐに、彼は前を向いて生きていくことを決めた。そして、その考えは、頭が石に命中した30年前から今まで、彼の生き方に強く影響している。
「勿論、脊髄損傷患者には、尿失禁や便失禁といった症状を持つ人もいる。また、強い痛みを感じる人もいる。痛みは、私が望まない最悪の敵だ。しかし、私は自分で動く力もあるし、集中することもできる。これまで私は活動的な人生を生きようとしてきた。セーリングも好きだし、シドニーのパラリンピックにも参加した。」
ダイビングでの事故以来、Claesは脊髄損傷患者のリハビリのために人生を捧げてきた。医学生だった頃、彼は将来の妻に出会った。妻との間には息子が一人いる。脊髄損傷患者がIVFによってパパになった世界で初めてのケースだ。
「20歳代に受傷した脊髄損傷患者のやる気を起こさせるのは難しいのです。多くがクライシスと感じ、人生は空っぽで真っ暗だと思うのです。楽観主義を戻す簡単な処方箋などありません。‘結局は何とかなるよ’などという、軽い慰めなど、役に立たないのです。」
Claesは言う。300万クローネを当てればとても幸せになるのかもしれないkれど、3、4年後には、その幸せのレベルは元に戻ってしまうという研究成果がある。
「脊髄損傷患者は、受傷直後にはとても不幸せです。しかし、数年後には気分は良く、幸せだとも感じています。そして私もそのうちの一人です。」
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