「筆を折る」
外科医ならば、「メスを置く」とでも言えましょうか。物書きに(望まなければ)定年はないけれど、外科医には必ず「メスを置く」、つまり、手術をやめなければならない時がやってきます。しかし、定年よりずっと以前に、「メスを置く」ことを考えるときが、正常な精神を持つ外科医であれば必ず何回かはあるものだと思います。
世の中でメスの切れる名医と称される外科医であっても、トレーニングの過程、そして、新しい術式や、難しい症例を扱うことになれば、所謂、「屍を踏み越える」ことによって、技術を更に磨くというステップを避けて通ることはできません。ましてや、凡人ならなおさらのこと。
女性の外科医は何故少ないのか。男女平等が進んでいるスウェーデンでも然り。男社会で勝ち抜いてゆくことがタフであることは、折々述べている通りですが、それ以外の要因として、女性の感受性の強さも原因の一つとしてあるような気がしています。手術がうまくいかなかったとき、それにより自分を責める傾向は、女性外科医に強い印象があります。そして、その失敗をひきずってしまうことにより、手術をすることが怖くなってしまう、、、。
同僚を見回して、手術が上手な教授より若手の(教授は50代前半!)中に、手術が上手な先生がいます。勿論、男性です。彼がロボット前立腺手術を始めたときに、何と、両側の尿管を縛ってしまうということが起きました。私だったら、少なくとも数ヶ月は手術はできないでしょう。しかし、彼はその後も平然と手術を続けていました。カロリンスカ大学の泌尿器科では、世界でもいち早くロボットによる膀胱全摘を始め、中でも、膀胱摘出後の尿路変向をロボットで行う(つまり、体外ではなく体内で行う)術式を取る施設は、世界でも稀有です。今週は、そんな訳で、泌尿器科癌の治療においては、「泣く子もだまる」ニューヨークのメモリアルスローンケタリング病院から手術の見学にやってきました。連日、3つの手術室で、3台のロボットによる、膀胱全摘、前立腺全摘が行われているのを見て、驚いているようでした。現在では、膀胱全摘の部分は1時間弱で終了するようになり、総手術時間は、回腸導管で3時間、自排尿型新膀胱でも4時間強と、開腹術に劣らぬようになりました。出血は殆どしませんし、患者さんも1週間以内に退院するようになり、手術後の疼痛も激減しました。しかし、5年ほど前に私が初めてこの手術を見たときには、手術の上手な教授でも10時間近くかかり、しかもその患者さんは術後に脳梗塞を起こした上、尿管の吻合部狭窄、腎不全と合併症を起こし、現在も腎瘻を挿入したままです。その後、患者さんは教授を訴えましたが、特に外科医側のミスが認められた訳でもなく、必然的に教授はその後その患者さんを診察することもありませんでした。文字通り、その患者さんは手術の進歩のための踏み台となった訳です。
手術の失敗、というより、手術で合併症を起こした件につき、それぞれの外科医と膝をつめて話した訳ではありませんし、彼らが心を痛め、それを克服した上で続けていることを否定しませんが、男女を比べると、男性の方がタフであるように思います。
私にも、苦い経験はいくつかあります。例えば、20年ほど前に膀胱全摘をしたおばあちゃんがいました。彼女は、大腸癌で結腸半切など、いくつかの腹部手術を受けていました。手術は特に問題なく行われましたが、腸の癒着を剥離し切れていなかった横隔膜下に浸出液がたまり、感染、イレウス、腎不全となり、ドレーンを利用した腹膜透析までしました。しかし、ある日、膣断端から便の排出を認め、つまり、腸管吻合不全となってしまいました。その後、多臓器不全となり、最後はストーマから大出血して、救命することができませんでした。術後1週間以内のことで、所謂、「術死」となります。指導医のもとでの手術でしたが、執刀医であることに代わりはなく、深く深く傷付き、落ち込みました。術死の経験はその一件だけですが、苦い経験をする折々に、「筆を折る」ことを考えました。待機手術で合併症が起こった場合、外科医がメスを入れることにより病状が悪化することが有り得ますし、下手な手術をして癌の治癒が期待できなくなったり、機能を損傷してしまうことも少なくありません。人間の体にメスを入れるということは、それだけ責任が重いということです。
スウェーデンでも、数年前に同じように合併症で手術数日後に亡くなった患者さんがいましたが、執刀医は休暇中で、出勤してくることはありませんでした。日本ではそういう訳にはいきませんが、スウェーデンでは患者さんの急変時でも、主治医に休暇中の出勤義務はありません。大きな手術になればなるほど、起こりうる合併症にも大きなものが増えます。長い手術の肉体的負担に加え、合併症を乗り越えていかなければ、外科医としての腕が上がらないという精神的負担の双方を抱えるには、男性の方が有利なのでしょうか。スウェーデンにおける最大かつ最先端の大学病院の泌尿器科でさえ、膀胱全摘や前立腺全摘をする女性外科医が、私以外にはいないことは、とても不思議に思えるのですが、やはり、女性には荷が重いのでしょうか。
私がロボット前立腺全摘の術者を30件くらいこなしたところで、自分としては、かなりいけていると勘違いしていましたが、その後、難しい症例にあたって、その自信は見事に砕け散りました。500例ほど経験のある年上の先生と話をしたら、彼も30件ほど手術した時期に、同じような経験をしたそうです。その後も上がったり下がったりしながら、上達していったとのこと。前立腺全摘の際は、ミリメートル単位での切除範囲の決断が必要になります。切除し過ぎれば神経を損傷することになり、切除範囲が少な過ぎれば、癌が残る危険性があります。しかも、人間の前立腺は十人十色で、形も大きさも性状も人それぞれなので、十分な症例数をこなさなければエキスパートとはいえません。
体力、精神力の続く限り、「筆を折る」ことなく、外科医道を邁進したいと思っていますが、1歳半の双子を抱え、オンコールでも働いているので100%以上働いていることになり、正直に言えば、かなりきついと感じています。人は皆、口を揃えて、「もう少し勤務を減らした方が良い。」とアドバイスしてくれます。今後のライフスタイルについては、考慮の余地がありそうです、、、。
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